元引きこもり名大生の雑記帳

雑記と一人旅の記録がメインです。

進学校で落ちこぼれ、二浪の闇へ…

 こんにちは。パッパギーです。北海道のど田舎に生まれ育ち、浮きこぼれ続けていた、という記事を書きました。

pappagie.hatenablog.com

 今回はその続きを書いてみたいと思います。

 

落ちこぼれる=アイデンティティの崩壊

 浮きこぼれのまま点数を伸ばし続け、晴れて地区トップの進学校に入学しました。しかし、あっという間に落ちこぼれて底辺層に転落しました。なぜ落ちこぼれたのかというと、ひとえに勉強法を知らなかったからです。
 私は生まれてこの方浮きこぼれで、自分で考えて勉強したことがありませんでした。中2から学習塾に通い始めても、ひな鳥のように口をパクパクさせながら課題が与えられるを待って、それをひたすらこなすという詰込み型の勉強しかしませんでした。詳しくはこちらをどうぞ。
 頭を使って勉強したことがなかったのに、必要なものを自分で取捨選択して、自分で計画を立てて勉強するなんて、当時の私には到底無理なものだったのです。
 
 落ちこぼれても学校生活をうまくやっていけていたのならまだましですが、そんなことはありませんでした。それまでずーっと「学校の成績が1番」で通ってきたのに、いきなり成績が悪くなって「落ちこぼれの自分」を受け入れることができませんでした。つまり、知らず知らずのうちに「浮きこぼれ」であることが私のアイデンティティになっていて、それがいきなり崩壊してしまったのです。ある意味私の支えだった部分がポッキリ折れてしまったわけですから、段々とふさぎ込みがちになっていきました。おまけに当時好きだった人は、私と同じ部活の人と付き合い始めるし、いいことなしです。それからも、落ちこぼれから脱しようと努力するわけでもなく、ただただ惰性で部活に打ち込むために、家と学校を往復する日々を送っていました。
 
 高3になっても状況は変わらず、周囲が必死に受験勉強している横で、私はダラダラしていました。当然大学受験には失敗しましたが、まじめに努力していなかったのでたいしてショックは受けませんでした。今思うと親に対する申し訳なさでいっぱいです。
 

アイデンティティを取り戻すために2浪

 それからは札幌の予備校での浪人生活に突入しました。一度失敗して目が覚めたのと、落ちこぼれだった私を腫れもの扱いした高2の時の担任を見返してやりたくて、一念発起して頑張ろう!と思いましたが、一つ問題が発生しました。どれだけ時間をかけても、予備校のテキストをこなしきれないのです。高校時代に全く勉強していなかったツケが回ってきました。教科書レベルもろくにわからないのに、応用問題ばかり並んでいるテキストとにらめっこしても、手も足も出ないのは当然です。そんな根本的なことに気づかないほど、当時の私には自己分析する能力がなかったのです。ああ、恥ずかしい。ちなみに2回目の受験も失敗に終わりました。
 
 1年間自分なりに頑張ったのに結果が出ず、かなりへこみました。進学をあきらめて就職しようか、と考えたこともありました。それでもやはり「勉強のできる子」というアイデンティティを取り戻したかったのと、高3の時の担任に「もう1度チャレンジしてほしいな」と後押しされたのもあり、もう1年浪人することを決意しました。浪人した理由が、「どうしても○○大学の□□先生のもとで研究したい!」とか「資格を取るためには△△学部で勉強しなければならない」といった前向きなものでないあたり、闇の深さが浮き彫りになっています。
 
 2浪目も同じ予備校に通うことにして、それはそれは鬼のように勉強しました。意識して基礎固めをしたわけではありませんが、同じようなテキストの2週目をやるわけですからメキメキ力がついていき、無事に名古屋大学に合格できました。ただ、あまりに受験勉強に集中しすぎた結果、入学直後にバーンアウトして引きこもり始めてしまった…というお話はこちらに詳しく書いたのでぜひ。

まとめ

 過去を振り返ってよくわかったのは、「受験勉強しかしてこなかったんだなあ」ということです。そのせいもあって、「学校の成績が1番」というアイデンティティの形成・崩壊がなされ、引きこもりになってしまったのでしょう。
 最近バズったこの記事には、筆者と同じ道産子として共感する点が多いです(話盛りすぎだろ、と思う点もありますが)。
 私の歪んだアイデンティティが形成されたのは、僻地で生まれ育ったのが大きいと思っています。「たられば」になってしまいますが、周りに優秀な人がたくさんいる首都圏や、せめてお隣の地方都市で生まれ育っていたら、ずーっと浮きこぼれ続けた可能性は低いでしょう。また、都会の豊かな文化資本に囲まれていたら、興味を持ったことについて自力で学習する習慣がついていたかもしれません。名古屋に出てきて日は浅いですが、そんなことを考えてしまうくらい、地方と都会の文化レベルの断絶がいかに大きいかを日々実感しています。機会があればこちらにもスポットを当てて考えてみたいですね。